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六相円融義




はじめに


六相円融義は、縁起の諸法が無礙無盡であることを総合的に説明するための手段である。

六相とは、総別・同異・成壊の三対の六つの概念をいう。相とは言っても、縁起の自体についてもこの六相によって観察する。これが互いに円融無礙の関係にあり、一に他の五相が含まれ、しかも六相おのおの分を守ることによって法界縁起が成り立つという。 

前の「十玄縁起無礙法門」が、法界縁起を十門の各場面によって単独的に説明するものであったのに対し、この「六相円融」は、縁起の全面にわたって総合的に説明するものである。
 
 
 

1.六相の名目とその淵源

 
 @総相 A別相 B同相 C異相 D成相 E壊相
 
 六相の淵源は『十地経』にまで遡り得る。ただし、古訳の『漸備経』『十住経』、およびskt本『十地経』(da1abh[mika_s[tra)に依るかぎり、六相が明示されるわけではない。
 
 ところが、仏駄跋陀羅訳『六十華厳』巻24(T9.545b)の対応箇所では、六相の名目を「総相別相、有相無相、有成有壊」と訳され、尸羅達摩訳『十地経』巻3(T10.538c)や菩提流支訳とされる世親の『十地経論』巻一(T26.125a)、実叉難陀訳『八十華厳』巻34下(T10.181c)になると、上記のいわゆる六相として示されている。
 
 なお、いわゆる六相を列挙する形の複合語は本来、初地の菩薩が完成する十願のうちの第四願を述べる箇所に出てくるもので、skt本に従えば、「一切の菩薩の実践たる地の道」にかかる(この点は、漢訳三本も同義)。
 
 世親によれば、「一切の所説の十句中にみな六種の差別相の側面がある」とされる。この解釈に従えば、六相は初地解釈に限定されないことになる。だが、彼は五蘊などの具体的存在にはこの範疇は適用されないと考えている。
 
 この問題が一つの展開を明確にするのは、浄影寺慧遠においてである。彼は本質に還元してみれば、一々の事象がみな無量の六相門を具えているとした。
 
 智儼は、『捜玄記』(T35.66b)で、六相に「理に順(したが)う」と「事に順う」との二義を説く。
  「事に順えば意味は微かである」と認めつつも、事象そのものに六相を適用。
 
 法蔵は、智儼の六相円融の思想を教学的に明確にした。
  『五教章』義理分斉の第四「六相円融義」には、次のように説明されている。
  • 総相とは、一つのものが多くの徳を含むことである。
  • 別相とは、それらの多くの徳が〔そのまま〕一体ではないことである。また、別々のものとして全体(総)に依存し、〔しかも〕その全体を満たすことである。
  • 同相とは、多くの意味が互いに相違せず、同じく一つの全体を作り上げることである。
  • 異相とは、多くの意味を対比すれば、それぞれ異なることである。
  • 成相とは、これらの様々の意味が互いに関わり合っていることである。
  • 壊相とは、さまざまの意味がそれぞれ自らのあり方にとどまり、変動しないことである。(T45.507c)

 

2.六相各説

(1)総相
  • 喩えば、柱・椽・梁・瓦などを総該した屋舎全体のようなもの。
  • 全体的統一。
  • 一に多徳を含むこと。一を中心にして多を内包すること。
  • 一法界。
(2)別相
  • 喩えば、屋舎を構成する柱や梁や椽。
  • 全体を構成する差別の相。一を円満に成立させる各要素。
  • 多徳は一ではないこと。しかし、別を離れて総はなく、別は即ち総である。
  • 諸縁。
(3)同相
  • 喩えば、柱や梁や椽が共に一つになって屋舎を形成していること。
  • 差別している種々なものが一つの全体を構成していること。
  • 諸縁が互いに相違せず、一法を作り出すこと。
(4)異相
  • 喩えば、屋舎を構成する柱・梁・椽などを相望すれば、柱は竪、梁は横、椽は斜と、みな異なる。
  • 差別・変異の側面。
  • 諸縁が各々異なること。
(5)成相
  • 喩えば、差別している柱・梁・椽などが、おのおの縁となって一つの屋舎を成立させていること。
  • 上の諸義によって総が成立すること。
  • 諸縁が屋舎となる結果を成ずるように、諸縁が一法界を有機的に成立すること。
(6)壊相
  • 喩えば、柱は柱の自相を守り、梁は梁の自相を守り、椽は椽の自相を守る、というように、一つの屋舎を形成する各構成要素が各々自の本位に住して、本来の面目を保有し、混じり合うことがないこと。
  • 壊とは不作の意。
  • 諸縁が各々自性を守って改めず、自位に住して全体(総)とはならないこと。
 
 
 

3.六相頌

 『五教章』「義理分斉」六相円融義 (T45.509a)は六相を頌で端的に表示されている。

一即具多名總相: 一に多を統摂する。
多即非一是別相: 総相の中の多であって一ではない。
多類自同成於總: 多が総を成ずることにおいて同。
各體別異現於同: 多がその体において各の別であり、しかも同に反しない。
一多縁起理妙成: 一(総)多(総の中の多徳)の縁起は相即相入の理であり妙えに成ずる。
壞住自法常不作: 諸縁は自法に位してその本分を守り、屋舎の形と成らない。
唯智境界非事識: 十玄縁起の法は唯だ無漏佛地の境界で、有漏分別事識の境界では知ることができない。
以此方便會一乘: 難知難解の無盡縁起も、六相方便(六相という手段)を以て尋思すれば、別教一乗の無尽縁起を会得することができる。


4.六相の関係

  ★體相用の三対に分類
    総別=縁起の体徳の立場から観察したもの。
    同異=縁起の義相の立場から観察したもの。
     成壞=縁起の義用の立場から観察したもの。
 
  ★円融と行布の二門に分類
    総同成=円融門
    別異壞=行布門
 
  ★六相を各々相望して、その違いを論ず。
    (1)同異二相と成壞二相との違い               成−壞   同−異
      同異二相は、別相の上にある。              |      | 
      成壞二相は、総相の上にある。              総────別 
    (2)別相と異相の違い
      別相は、総相に望む。
      異相は、別相に望む。
    (3)同相の成相の違い
      同相は、別相中に望んで互いに力を合する義。
      成相は、総相中に望んでこれを成ずる義。
    (4)成相と壞相の違い
      成相は、総相を成ずる義。
      壞相は、自己の資格を守る義。
    (5)異相と壞相の違い
      異相は、別相中に望んで自他おのおの異なる義。
      壞相は、総相中に望んで自相を守る義。
 
 

5.六相が示される理由

 
 六相は、華厳行者の観解心中に一真法界である十玄縁起を顕現せしめることが目的。
 法蔵は『五教章』で、この教えが示される理由として、「教興の意とは、此の教は、一乗円教の法界縁起は、無盡円融、自在相即、無礙溶融、乃至、因陀羅、無窮理事等の為なり」と説いている。
 つまり、理事等の十義が相即相入・事事無礙・重重無盡であるという真実の存在のあり方を明らかにするためであるとする。具体的に屋舎の例を挙げて詳しい説明を展開する。
 
 ★六相を尋思する功能
 
 (1)一切惑障は一断一切断。
迷いの対象が一即一切であるなら、迷いそのものも一即一切であり、迷いを断つことも一断一切断となる。そしてこれを時間的に言えば、九世・十世の惑障も悉く滅することとなる。
 
 (2)行徳は一成一切成
一切の惑障が断滅されれば、能証の智徳をはじめとして、一切の行徳(修行の効果)も成就する道理である。
 
 (3)理性は一顕一切顕
行徳が成就し、能証の智徳が朗然とすれば、所証の理性は一分の理を証するとき一切理性も顕現する。
 


6.問答解釈(六相Q&A)


(1)総相Q&A (別即総を明かす) 

Q1: 総相とは何ですか?
A1: 総相とは、たとえば屋舎です。
Q2: 屋舎とは言っても、椽や柱や梁や瓦など(諸縁)の集まりですよね。それ以外に屋舎という実体なんて何も無いんじゃないですか。それなら、なにを以て屋舎というのですか?
A2: 椽が屋舎なのです。椽なら椽だけでそのまま屋舎を成り立たせているのです。全ての物事はいずれも縁起相由の法ですね。ひとまず柱や梁などの他の縁力を奪って、ただ椽のみに注目してみましょう。もし、椽が無ければ屋舎は完成しませんね。つまり、椽のみに全力があって、屋舎を完成するといえます。したがって、椽というとき屋舎も完成されているのであって、椽がなければ屋舎は無いのです。だから椽は屋舎なのです。
※部品のみであって全体は無いとすれば総相無体となる。また、部品が無いのに全体のみが有るとすれば自然生の過となる。
Q3: もし、椽のみが独り屋舎を完成するのなら、他の部品である瓦や柱などが無くても屋舎は成り立つのですか?
A3: もし、瓦や柱が無ければ、椽も有り得ません。縁起相融して屋舎を成り立たせているのですから、椽が無ければ屋舎を成り立たせることもありません。椽とは因縁のことです。したがって、未だ屋舎が成り立っていないときは、屋舎を作り上げるための因縁が無いのですから、それは単なる材木にすぎないのであって、〔屋舎を構成する〕椽とは呼べません。しかし、それが椽であるからには、屋舎を成り立たせているのです。
※これに二つの見方がある。一には、瓦や柱を屋舎の中に摂して、すべて椽によって完成されたものであると見る見方。二つには、瓦や柱があっても、椽が無いときは屋舎は完成しないのだから、屋舎を完成する力は全く椽に奪われて、椽のみが屋舎を完成すると見る見方である。
Q4: もし、椽などの諸縁が各々全力を出す(それのみで屋舎を完成させる)のではなく、それぞれが少力を出すのみで(柱なら柱、椽なら椽のみを成立させるのみで=分成)、それらが共に屋舎を作り出すのだと言えば、どのような過失があるのですか?
A4: 断常二過があります。たとえば、椽なら椽が屋舎の全体を成り立たせると見るのではなく、それぞれの一部分のみの完成を担うと見るのであれば、椽以外の柱や梁などの諸縁も各々屋舎の一翼を担うのみです。そうすれば、屋舎といっても、単に多くの椽や柱などの材料の集合体であるにすぎず、屋舎というものは成立しません。これは断過です。椽にも柱にも、それぞれが屋舎の全体を完成させる全力があってこそ、不断不常なのです。このように、各々が全力を出さず少力であれば、屋舎を成立させることができないのです。それなのに、全体としての屋舎があると間違えて捉えるならば、それは因が無い(無因)のに屋舎のみが成立していることになります。そんなことは実際にあり得ないので、これは常過となってしまいます。かりに、椽が屋舎を全成しないとすれば、一の椽を取り除いても、屋舎が存在することになります。だから、椽に全力があって全屋舎を成り立たせているのです。このように、椽以外の柱や梁や瓦などの諸縁についても、また全力があって屋舎を全成するのです。
Q5: 椽が一つぐらい無くても屋舎と言えるのではないですか?
A5: でも、それはつぶれた屋舎であって、十全な屋舎とは言えません。
Q6: 屋舎が椽であるなら、椽以外の瓦や柱も椽なのですか?
A6: 総じて椽なのです。なぜなら、椽が無いなら屋舎だって無いですね。そうすれば、柱や瓦だって成立しないのです。(これは、他の柱や梁などについても同じことが言えます。)


(2)別相Q&A (総即別を明かす) 

前述の如く、総相(屋舎)は、別相(柱・椽など)によって成立するのであり、別相が無ければ総相は成立しない。ここでは逆に、総相によって別相が成立することを明かす。たとえば、屋舎を離れて別に柱・椽などは無いのだから、屋舎を以て柱とし椽とする如く。総相を以て別相とする。

Q1: もし、総が即ち別なら、やっぱり総なんて無いんじゃないですか?
A1: 総が即ち別だからこそ、総が成立するのです。たとえば、椽が即ち屋舎だから、屋舎を総相と名づけたように、屋舎が即ち是れ椽だから、総相は即ち別相であるというのです。かりに、椽に即さない屋舎などと言えば、その屋舎は真の屋舎とはいえません。自然発生的に成立した屋舎ということになるからです。こんな屋舎は実際には存在せず、観念上のものにすぎません。だから、総と別とは相即しているのです。総相とは別即総の総相であり、別相とは総即別の別相なのです。
※なお、この総別相即について、「体の相即」と「義の相即」という二つの見方がある。体の相即とは、これまで論じてきたとおり。義の相即とは、総相というものが、その内に含んでいる多くの別を総じ束ねて総というのであり、別相とは総を引き分けて別というとする見方のこと。
Q2: もし、相即するのであれば、無差別であって、別なるものは無くなるのではないですか?
A2: 相即するからこそ、却って別を成立するのです。総は別によって総といい、別は総によって別というからです。もし、総と別とが違背して相即しなければ、総とか別という呼び名もいらないでしょう。総といっても別といっても、同じ一法の上における見方の違いなのです。
Q3: もし、総相との相即の上に成り立つ別相であるとしないならば、どのような過失があるのですか?
A3: 相即しなければ断常二過に墮してしまいます。総相と相即した別相がなければ総相もあり得ません。別相である椽や瓦がなければ、総相である屋舎も成立しませんね。このように、別相のみが独立して存在すると見れば、それは断過に堕してしまいます。また、逆に別相である椽や瓦がないのに総相である屋舎があるとすれば、無因ということになり、常過に堕してしまいます。


(3)同相Q&A

同相とは、椽などの諸縁が和合して屋舎を作るとき、椽などの諸縁が互いに屋舎を作ることを妨げない。つまり、椽は瓦が屋舎を作ることを妨げず、瓦は椽が屋舎を作ることを妨げないで、相互に違背しない。それ故に、椽は「屋舎であるところの椽」というのであり、瓦を「屋舎であるところの瓦」という。このように、屋舎を構成する各要素は、各々が違うものを形成するのではなくて、一つの屋舎を共に形成するのであり、各構成要素は互いにその用きを妨げない。したがって、各構成要素は共に屋舎を形成するという意味において相違するものではない。このことを同相という。

Q1: 同相は総相とどのように違うのですか?
A1: 総相とは諸縁和合の屋舎をいいます。かたや同相とは、総相の中にある椽などの諸縁について、その体が各々別ではあっても、屋舎を作るという意味において相違せず、その屋舎を形成するという用きの力は斉しいから、同相というのです。
Q2: もし、そのような同でないとすれば、どのような過失がありますか。
A2: 断常二過があります。同相であってこそ屋舎を形成するのに、もし、不同であるとすれば、椽などの諸縁が互いに違背してしまい、一つの屋舎を形成しないので、これは断過となります。また、このように各構成要素が相違するなら屋舎を形成しないのに、相違していてもやはり屋舎はあるのだと見るならば、それは常過となります。


(4)異相Q&A

異相とは、椽などの諸縁が、椽は椽、柱は柱、瓦は瓦というように、それぞれの形に随って、長短方円などと相が差別していることをいう。

Q1: 異相というのなら、不同ということですか?
A1: いいえ。異相だからこそ同相なのです。もし、異相という見方がなければ、たとえば椽が一丈二尺なら、瓦も一丈二尺となってしまうでしょう。これでは瓦としての本分が破壊されてしまいます。同相のところでも申しましたが、椽や瓦などの諸縁の体は各々別別でありつつ、しかも同じく屋舎を構成し成り立たせているのです。もし、異相という見方を欠けば、同相という見方も失われてしまいます。だから、同と異とは相即しているのです。椽や柱や瓦や梁などが集まって共にその用きを発揮し、一つの屋舎を形成しているのですから、柱や椽などの構成要素はすべて斉しく屋舎を形成する縁となっています。したがって、諸縁は同相のまま異相であるということが理解されます。
Q2: それでは、異相と別相とには、どのような違いがあるのですか?
A2: 別相は、一つの屋舎について椽や柱などといった多くの徳相が各々別であることをいいます(しかし、体は同じである。)。かたや、異相とは、椽などの諸縁を互いに相対的に見て(相望して)、これらの体は異なっているというのです。
Q3: もし、異相という見方を欠いたならば、どのような過失がありますか?
A3: 断常二過があります。もし、異相という見方を欠けば、瓦が椽に同じて一丈二尺となりますね。そうすれば、瓦としての本分が破壊されてしまい、椽も瓦も屋舎を成り立たたせません。これは断過です。さらに、それでも屋舎は有るのだと執着するなら、それは無因にして屋舎が存在するとするのですから、これは常過となります。


(5)成相Q&A

成相とは、椽などの諸縁によって屋舎が成立するのであり、屋舎が成立するから椽などを諸縁と名づけること。もし、椽などが屋舎を成立しなければ、屋舎と椽の両方ともが成立しない。しかし、いま現に椽などの諸縁が屋舎を成立しているのだから、椽などの立場から屋舎に対して成相であるというのである。

Q1: 現に椽などの諸縁を見るに、各々が自己の本分を守っていて屋舎とは成っていないように思えます(これを壊相という)。なのに、諸縁はどうして屋舎を形成する(成相)のですか?成相と壊相とは矛盾してはいませんか?
A1: 椽などの諸縁が各々自己の本分を守って屋舎と成らない(壊相)からこそ、ここに屋舎が成立するのです(成相)。どうしてかと言えば、もし、椽などが自性を改めて屋舎の形となったならば、本来の椽の本分(椽が椽である所以)を失うことになり、屋舎を形成することはできません。いま、椽は椽の本分を守っていて屋舎とはならないから、椽たり得るのであって、椽が椽だからこそ、屋舎を形成することが出来るのです。逆にもし、椽が屋舎を作らないのなら、椽などを以て諸縁と名づけることはできなくなるでしょう。これを椽と名づけるからには、それは必ずや屋舎を形成するのです。これが成相ということです。
Q2: もし、成でなければ、どのような過失があるのでしょうか?
A2: 成は壊に即した成でなければ、断常二過となります。なぜなら、屋舎はもともと椽などの諸縁に依って成立しています。かりに屋舎を成立することがないとすれば、もちろん屋舎の存在は有り得ません。これは断過です。また、屋舎を成立させるからこそ、椽を椽と名づけることができるのであって、もしも屋舎を成立しなければ、それは椽ではありません。これも断過です。かたや、もし、椽が屋舎を成立しないとするのに、それでも屋舎は存在していると間違って捉えれば、これは常過となります。また、成でないと言えば、それは、椽に屋舎を作るという本分が無いということのはずですが、それにもかかわらず椽と名づけるのなら、これも常過となります。


(6)壊相Q&A

壊相とは、椽などの諸縁が、各々自性を守っていて、もとより屋舎の形とならないことをいう。

Q1: 現に椽などの諸縁を見るに、確かに屋舎を形成している(成相)。それでは、どうして、椽などは、もともと屋舎とはならない(壊相)と説くのですか?(問者は成相の立場から壊相を疑う)
A1: 当たり前のことですが、一本の椽が屋舎に変身したりはしませんよね。そんなことがあったら、たいへんです。屋舎の中に屋舎がひしめき合っていることになるわけですから、そんなの屋舎とは言えません。だから椽などの諸縁は各々自性を守っていて屋舎とは成らない(壊相)と説くのです。椽は椽としての本分を動かさず、屋舎と成ったりはしない。だからこそ、ちゃんとした屋舎が成り立つのです(成相)。屋舎が現に成立しているからには、椽などの諸縁は屋舎となっていないのであり、これらが壊であると言えるのです。
Q2: もしかりに、諸縁である椽などが総相である屋舎になってしまうと考えるなら、どのような過失がありますか?
A2: 諸縁が屋舎となって壊相でないとすれば、断常二過が生じます。もし、椽が屋舎に成るとすれば、椽としての自己の本分を守らないことになります。そうすれば、屋舎が形成される縁が無いのですから、屋舎は存在することができません。ですから、これは断過です。また、それにも拘わらず、屋舎があるのだと執すれば、それは常過となります。




─已上 六相圓融義 竟─





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